昨日、今日と下を向いて歩いていたら花をたくさん見つけた。

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上を向いて歩くのもいいが、たまには下を向いて歩くのも悪くない。(前を向け。)


ところで先日、とある会議というかミーティングに出席したのだが、久しぶりにクリエイティブでみんなの目が生き生きしていて、面白いミーティングだった。

それまでは、前年度の踏襲であったり、決められたものに沿って予めほぼ決められたような答えを出すために、あとは微調整するためにとりあえず人数を集めてやっていたようなもので、当時はそのことに対して、なんの違和感も抱いていなかった。

ただただ、いつものように話を聞いて、いつものように話す人が話して、それをただただ聞くだけでお金が出るのだから、楽なもんだと、そんな程度の認識でしかいなかった。今思えば惰性だ。最低だ。あらゆる方面に対して、失礼きわまりなかった。


しかし、少し前に事件が起きた。発端はちょっとしたいざこざだったのだが、それを皮切りにこれまでの体制に限界まで不満を溜めていたメンバーの不満があれよあれよと噴出し、一時は半壊滅状態にまでなった。不満をぶつけられた側の中には、しばらく姿や意見を見せられなくなったものもいた。


しかし、あらゆる人物の影の努力により、なんとか持ち堪え、最近すこし盛り返してきたかな、と感じていた矢先の出来事だった。

正直感服した。そしてやはり自分たちの選んだ人物で、間違いはなかったのだと確信した。ちなみに姿や意見を見せられなくなったものも今は復活してきている。


よくなる組織には、ほとんどと言っていいほど、混乱期が訪れるようだ。だがそれと同時に、この時期を経験した組織は強い。とも言っていた。とある教育に関わる人物である。


それまでの私であれば、衝突は避けた。良くも悪くも大人で、冷たかったのかもしれない。余計な労力を対人関係の(しかも一度壊せばどれくらい修復にかかるかわからないような)いざこざに割くくらいなら、日々の楽しい出来事や自分自身や自分の大切な人のために使った方がよっぽどいいと、そう思っていた。

しかし対人関係の衝突を避ければ避けるほど、次にあった人物や組織と、衝突しなければならないような展開に追い込まれた。

これは空から見ている何処かの誰かからの試練であり、メッセージだったのかもしれない。もう、いい加減いい大人だが、だからこそ、建設的な「喧嘩」ができるはずだ。自分も相手も一旦は受け止めつつ、思いのありのままを伝えられるような…。


だからこれからは、相手と冷静に「喧嘩」ができるように、誰かの気持ちを安堵させられるように、思いを的確に伝える術を身につけて行きたい。それのヒントになりそうな本を今読んでいる。感想は後日書く予定だ。


以下忘れないための備忘録ーーーーー

逃げないで。くじけないで。もう私は、あの頃みたいなやられっぱなしの私じゃない。


あの頃みたいな、超えられない壁に屈したり、下手に勘ぐって相手の望むことを先読みして自分を押し殺して動いたり、そんな自分にうじうじ不安になるような私じゃない。

大切なことは、これからどう動くかだ。