好きなことを続けるということ。
昨日、今日はすごく良い天気で、先日の憂鬱さえも吹き飛ばしてくれる空模様だった。
だが光が強いとその分、見たくないものもはっきりと見えてしまう。
影は濃くなり、曇りの日や雨の日には見えなかったものが見えたりもする。
それは、恋人、友人、親子、兄弟、師弟…などなど、人間関係にも似ている。
曖昧だった時には見えなかったこと。真実。普段から目を見開いて、注意していたつもりでも、見落としていたシワや影。
ある日突然、光に照らされて、思いもよらなかった綻びが見えてしまうこともある。
そんな時でも自分は自分でいられるか。
いつ照らされても目を逸らされずに、逸らさせずに済むような関係を作れているか。生き方ができているだろうか。
どれだけ明るい光に照らされていても、見る方向が違えば見るものが違う。角度が違えば見え方が違う。それはどちらの方が正しいというものではなく、どちらにとっても真実なのだろう。
とある尊敬するアーティストの記事を読んでいて、「好きなことを続けるのも大変」だと学んだ。たとえそれが好きなことでも、続けることにはそれなりの苦痛を伴う覚悟が必要で、周りから何を言われようと、その「好き」を貫き通した先で何が起こっても、自己責任である。
だからこそ、今、「好き」に真っ直ぐである人を尊敬する。それにそれは「好き」を選び続けているということでもあり、そんな風に継続して「好き」を選び続けていることにも素直に凄い、と思える。
そもそも「続ける」それ自体が難しい。まさか小学生の頃担任から言われた言葉が今になって響いてくるなんて。
きっとこれから大人になっていく中で、「好き」より優先しなければならないこともでてくるし、新たな「好き」がそれまでの自分の「好きな」だと思っていたものをはるかに凌駕することだってあるだろう。そんな時でも、私は「好き」を通せるか。
先ほどは人による見え方や見る方向の違いを述べたが、時間が変われば自分自身の見方や見る方向だって変わっていく。ベートーベンは耳が聞こえなくなった。私もいつか何か起こるかもしれない。そうなっても残る「好きなこと」。それで誰かの背中を押せたら最高だろう。模索は続く。